【肛門病スペシャルの名にふさわしい、ザ裂肛】
まず、裂肛という病気について、説明しましょう。
これは、俗に言う、「切れ痔」です。肛門の皮膚が切れてしまって、「血は出るし、痛みは出るし」、という病気だと思って、だいたい、正しいのです。
硬いウンチをしたときに起こる、肛門の傷ですね。これが、急性の裂肛です。
そして、しばしば、慢性化します。
慢性化すると、不思議に、肛門の外に、皮膚のたるみが出来ます。「見張りいぼ」と呼ばれたり「スキンタッグ」と呼ばれたりします。また、肛門の奥のほうには、「乳頭肥大」といわれたり、「肛門ポリープ」と言われたりするものも出来ます。これらを、裂肛の創とあわせて、「裂肛の3徴」といいますね。
肛門の創というだけ、切れ痔というだけだと、医学的には何の興味も引かない疾患のはずなのですが、実は、この4分の1世紀にわたって、通の世界では、かなりホットな疾患でした。
【裂肛】
この病気ほど、この4分の1世紀にわたってホットだった病気はないのじゃないかと思います。気づいている人は少ないかもしれませんが、この病気に関する1連の論文は、医学論文を考える上で、かなり面白いし、示唆にとむものです。
まず、裂肛という病気について、説明しましょう。
これは、俗に言う、「切れ痔」です。肛門の皮膚が切れてしまって、「血は出るし、痛みは出るし」、という病気だと思っていただいて、だいたい、正しいのです。
でも、それだけだったら、なぜ、ホットで面白いのかって思うでしょ。ただの傷なのだとしたら。
それは、この病気の治療法が確立されていくときに、その治療法を理論的に支えるデータと論文が一本の糸のようにつながっていく様が「みごと」だからです。見事すぎるともいえます。
まず、論文が出るのです。
論文@ 「裂肛があると、肛門の内圧が高くなっている。」
「常識的には、お尻が痛いのですから、圧は高くなって当然です。お尻に傷があるときに、お尻の中に圧計を入れられて計られたら、さぞかし痛がって、肛門内圧が高くなるでしょうね。だから、こんなことを測定したこの論文にはどんな価値があるのでしょう。」こんな風に論文の価値を低めて考えることも可能でした。
このときは、このデータの真の意味に気づいていた人は少ないのではないでしょうか。とにかく、これによって、ただの創とは違うことが示され、科学が始まるのです。
論文が続きます。
論文A 「肛門内圧が高いと、肛門皮膚の血流が低下する。」
これは、ある意味ではあっと驚く論文です。
また、かなりマニアックな研究ともいえます。
ある意味では、変人好みの論文ともいえますね。
しかし、これが、その前後の流れを見通さなければ出せないような論文なのです。これがなければ、これらの一連の論文はつながらない。鍵になる論文です。
しかし、かなり危うい論文です。なぜなら、血流を測定することは、とても難しくて、また、別の言い方をすれば、信頼性の高いデータを臨床で出すのは、非常に難しくて、測定している研究者でさえ、それらのデータに疑心難儀になってしまうものなのです。
さらに、
論文B 「特に、肛門の後方は血液のめぐりが悪い。」
こんなデータも続きます。
どうでも良いような気がしますね。しかし、こんなデータも重要な意味を持つのです。
どうやって、肛門の周囲の血流などを正確に測ったのかは、ここでは省略しますが、確かに、肛門の内圧が高ければ血液が入りにくくなって、皮膚血流が低下もするだろうな、とは想像と一致します。また、肛門の後ろ側は、発生学的に考えて、確かに、血流は悪いこともあるだろうなとも、思います。
とにかく、肛門の周囲の血流を測るような、マニアックな仕事は、新しいデータとしては面白いかもしれないけれど、どんな価値があるのか、このときも多くの研究者は気がつかないのです。
しかし、これこそ、狙いすました論文といわなければなりません。
圧と血流という知見が結び合わされます。
裂肛で肛門内圧が高いのは、測定される前から、多くの人が気づいている自明のことでしたが、このような自明のことが、半ば危うい血流データと組み合わさって、病因論が形成されるのです。
裂肛が出来ると痛みで肛門括約筋が痙攣を起こし、肛門の内圧が高まり、その結果、血の巡りが悪くなり、裂肛の創の治りが悪くなり、創が治らないうちに、また、裂けやすく、結果として裂肛が慢性化する。肛門後方で裂肛が多い事実が肛門後方で血流が低下している事実で説明されることからも、この理論の正しさは補強される。
という、裂肛の病因論が想定されたのです。
この病因論は、言ってみただけ、という感じを受けるでしょう。私が最初に読んだときも、勝手に言わせておけ、という論文に感じました。
しかし、ここから、さらに細い糸を手繰るようにして、治療法へと論文は続いていくのです。
治療法として、肛門の内圧を低下させれば、肛門周囲の血流が改善し、創が治りやすい状態になり、裂肛の治療となる。というものです。
肛門拡張法。指で肛門を拡張させるものです。この治療法の論理的基礎が築かれたことになります。確かに、この方法で、裂肛が治ることが多いのです。この治療法をいうために、今までの論文の流れがあったのかとやっと気がついた専門家もいたのじゃないかと思います。
しかし、まだ、論文が続きます。この方法では、術後の便失禁が多いと。括約筋の損傷が多いこともデータとして明らかにされます。
そこで、括約筋のメスによる切開法が現れます。
最初は、肛門の後方で切開する方法が主流だったのですが、しかし、もともと、肛門の後方は、血流が低いという論文が、そこの創傷治癒が悪いことを示し、創の治りが悪いところでの切開が否定されます。
そこで、側方内括約筋切開法が登場します。この方法で、どのくらい治ったとか治らなかったとかいう論文が続きます。
これが、治療法の切り札になるかと思われると、その後、内括約筋の強縮を抑制するのなら、局所的に平滑筋の筋弛緩剤を使えば良いという発案から、裂肛の薬物治療が試みられることとなるのです。
この薬を塗ると、治ったとか治らなかったとか、論文が相半ばします。
これらの治療法にも、肛門内圧の変化と治療効果の論文の山が続きます。薬の副作用で頭痛も出現し、そんなこともいい、悪いと論じられます。
そして、現在に至っているというわけです。
悔しいことに、これら一連の論文のなかに日本人の論文はありません。
実は、これらの中心論文は、西洋のあるひとつの施設を中心に発表されていました。
新しいデータが新しい理論を生み、新しい理論が、新しい治療を生んでいく。論文が飛び石のように有機的につながり、病因から、治療法まで作っていく。この論文の流れは、肛門医科学史の中でもゴールデンロードといえるものだと思います。(誰もこんなことは言いませんが。)
幾百という論文があっても、病気の原因を明らかに出来ないし、治療法を作ることも出来ない。そんな論文の山がたくさんある中で、これらの一連の論文は、一本の細い道を踏み外さないように、確実に前進して続き、新しいところへとつながっていきます。
この実に見事な論文のつながりを見ていると、別の妄想が沸いてしまいます。
実は、ひとつのシナリオに沿って、論文が提出されていたのではないか。
最初から、すべてを見通しているコンダクターがいて、そのシナリオにそって論文が製造されていたのではないか。そう考えないと、普通ではやらない研究もあるのです。
医学論文の場合、日本では、表立って評価する人はいませんが、シナリオ感覚というのは、大切です。それがなければ、往々にして、研究は、単発の論文に終わってしまいます。
ただ、シナリオはというのは、劇が進む間に、どこかで別のシナリオに置き換わってしまう運命にあることも多いのですが。それを受け入れながら論文の細い糸をつなげる。それを、彼らはやっているのではないか。ただ、純朴に真実を解き明かそうとしているのではなく。
科学が、筋書きのないドラマだとは決していえないのですね。
【the web 大腸・肛門・骨盤底疾患スペシャル】